〈神谷瑞樹 対 高村勇二郎 ダイアローグ・ギルティ開始〉
会場に入った時から、雰囲気が違うのに気づいた。二階席の人間が色めきたっている。それもそうだろう。今回の戦いは経験者同士の戦いなのだ。
そして、その騒めきに応えるように私と勇二郎は同時に拳銃を向けた。ゲームはまだ始まっていない。しかし、私と勇二郎は腕を降ろす事無く、真っすぐ拳銃を構える。
勇二郎は笑っている。その笑みは勝利への確信に満ちている。
「‥‥」
私は一瞬、勝てないのではないか、と思った。彼の笑顔に揺らぎは無い。それに比べて私は、心に揺らぎがあった。彼を殺したらあの答えが聞けない。自分が死んでも聞けない。どちらでもダメなのに、まだ知りたいと思っている自分がいた。
首筋を冷たい風が通る度に、鳥肌が立った。
「先行は吉村勇二郎。では、ダイアローグ・ギルティを始める。主よ、我らの罪を荒い流したまえ」
その声を聞き、勇二郎は一回銃を下ろした。
「まだ踏ん切りがついてねえ顔してるな」
「‥‥」
「ここまで来たらもう何を考えても無駄さ。俺は喋らない。そして、あんたは死ぬ」
揺らぐ事の無い、勝つ事への確信。しかし、本当はその確信は確かなものではない。そんな事は分かっている。分かりきっている。ただ、虚勢を張っているだけだ。何をしても運命は変わらない事も分かっている。
それでも、勇二郎の顔は変わらない。
「‥‥ばいばい」
勇二郎は小さくそう言うと再び銃を構え、引き金を引いた。キチキチという音のすぐ後に、ハンマーが振り下ろされた。私は一瞬目を閉じる。
あの人が死んでからゲームに出て、初めて恐いと感じた。死にたくない、と思った。思った瞬間に、ガチンという音が聞こえた。
「‥‥」
「‥‥」
目の前は暗闇だ。当然だ、私は今、目を閉じているのだから。でも、閉じていると自分で感じている。痛みは無い。意識もある。目を開けると、紫煙も弾も出ていない拳銃の銃口が見えた。その向こう側で勇二郎の顔が卑屈に歪んでいた。
「ちっ!」
「‥‥」
私は胸で一度大きく深呼吸をした。改めて拳銃を勇二郎に向ける。銃が震えていた。
勝ちたいと願っている。その気持ちに変わりは無い。でも、勝てる気がしなかった。でも、そんなものは分からない。このゲームは全て運なのだから。でも、それでもあの人に勝てないような気がした。
人差し指に力を込める。
「‥‥あっ」
「‥‥」
虚しい音が、通り過ぎて消えていく。弾は出なかった。
たった一発弾が出なかっただけなのに、私は不安になった。このままだったら死んでしまうのではないか。あいつには殺されたくないのに、死んでしまうのではないか。そんな不安に襲われていた。こんなくだらない不安に陥ったのは初めてだった。
ダメだ。高瀬と勇二郎が残した言葉が心に引っ掛かり取れない。こんな事は初めてだ。踏ん切りがつかないまま、ここに立っている。生まれて初めてここに立った時も、あの人が死んで懺悔の為に改めてここに立った時も、私の心は曇っていなかった。
でも今は違う。太陽が見つけられない。
だから恐い。底の見える谷底に落ちて死ぬのは恐くない。でも、今目の前にあるのは底の見えない谷底だ。恐くて飛び込めない。ああっ、どうすればいいのだろう。何をしたって変わらないのに、それでも悩んでしまう。
だったら忘れなさい、何もかも。
「えっ?」
今、誰かが私に声をかけた。女の声だ。目の前には勇二郎がいて、私に銃を向けている。扉の近くにはスーツ姿の男が二人。女はいない。だが、今確かに声が聞こえた。
「‥‥」
ヤバい、と思った。私はもう狂い始めてる。
これから死ぬあなたは何を知っても無駄なのよ。
「‥‥」
また声が聞こえた。自分の声に似ていた。
分かった。これは私の声だ。私の心の隅でもう一人の私が私に言っているのだ。
「おい‥‥どこ見てるんだよ」
勇二郎が椅子に座ったまま銃を構えていた。
「‥‥ごめんなさい」
「何謝ってるんだ。お前は」
「えっ? あっ‥‥。どうしてかしら」
「‥‥連勝の女神が聞いて呆れるね」
つまらなそうな顔をして、勇二郎が引き金を絞った。
弾は出なかった。
「‥‥またかよ」
「‥‥」
心臓の鼓動はおさまらない。指の先が痙攣を起こし、脂汗が止まらない。恐いと感じているのか分からない。分からないのに、心臓は高鳴っている。
ああっ、ヤバい。確実に狂い始めてる。自分が消えていく。
あなた、何か迷っている事なかった?
耳の奥で響く声。答えられない。ほんの数分前まで何か考え事をして迷っていたのに、思い出せなかった。
前を見る。沈んだ顔の勇二郎がいた。凄く珍しい顔だと思った。あんな顔、ゲームが始まる前には見せた事が無かった。
死ぬのが恐いみたいね。
「‥‥かもね」
心に中にいる彼女に言った。
銃を構え、ハンマーを起こす。銃口を相手の額に合わせる。何も思い出せないのに、銃口は向こうに向けなくては、という事だけは何故か覚えていた。
銃を上げては引き金を引き、出なかったら腕を下ろして、そしてまた構える。それを冷静に考えると昔見たチャップリンの映画を思い出す。でも、タイトルが思い出せない。
「ねぇ、チャップリンが出てた映画で、食事をさせるロボットが出てくるの、何て言ったっけ? どうしても思い出せないのよね」
青い髪の毛の男は、少しだけ顔を上げる。泣いても、笑ってもいない。
「モダン・タイムスじゃないのか?」
「ああっ、そうか。ありがとう、何だか胸がスッとしたわ」
今、私は勇二郎の事を憎んでいなかった。単純に、映画の名前を教えてくれて、優しい人なんだな、と思った。なのに、引き金を引くのには躊躇いが無かった。
弾は出るのかな、と他人事のように考えた。引き金を引く自分と、それを見つめている自分は別物のように感じる。だから、例え弾が出て、相手が死んでも自分のせいではないのではないか、と思ってしまう。そんな事は無いのに。
「‥‥」
「‥‥」
まず聞こえたのは、二階からの喝采だった。その後に、消えていく乾いた音と、脂汗を拭いながら心臓の高鳴りを押さえようとする勇二郎の荒い息継ぎが聞こえた。
勇二郎は何度か首を強く振ると、立ち上がった。拳銃を構える姿がどこか弱々しい。私は座る事も忘れて、その光景に見入る。不思議な光景だな、と思っていた。
「あんたは絶対に狂う事なんて無いと思ってた。狂ったらこの緊張感は味わえない」
「‥‥私、狂ってるの?」
「狂ってるさ。そんな事言うんだからな」
勇二郎は優しそうににっこりと微笑んだ。そして引き金を引いた。
「‥‥」
「‥‥」
「‥‥あれ? 今度こそ出ると思ったのに」
引き金を引き終えた銃を銃口の先を、勇二郎は不思議そうに覗き込む。玩具が壊れている事に気づいていない子供のようだった。
あなたも‥‥狂ってるわね。
もう一人の私が、彼にそう言った。その時、初めて彼女の顔が心に浮かんだ。死んだ魚の目をしていた。
立ち上がる事も無く、銃を勇二郎に向ける。
「私、あなたの事、確かに憎んでいたはずなのに、何で憎んでいたのか分からないわ」
「‥‥」
「でも、あなたに向かって引き金を引かなくてはいけないという事だけは覚えている」
「‥‥」
勇二郎は恐がる様子も見せず、黙って銃口を見つめていた。何が出てくるのか楽しみにしているように見えた。だから私は彼を喜ばせようと、引き金を引いた。
「‥‥」
「‥‥」
弾丸は出なかった。ああっ、これじゃ彼は喜ばないな、とだけ思った。
もう何かを考える事も億劫になっていた。
条件反射のように勇二郎が立ち上がる。しっかりと私を見ている。だが、焦点が合っていなかった。
「俺、こんな所で何やってるんだろうな」
彼は二階席の人達に向かって言っていた。
「‥‥」
「‥‥まだ、出ないのか」
銃口から飛び出た空気が、私の乾いた瞳を撫でた。カチャリ、という音は聞こえなかった。その瞬間だけ、頭の機能が停止していたのかもしれない。動きだした頭が理解したのは、生きているという事だけだった。
ポカンとした表情で勇二郎は腰を椅子に落とした。シーソーのように私の腰が持ち上がる。
拳銃を構える。
「もう飽きたわ。ここ」
「‥‥死んだら、俺って天国に行けるのかなぁ?」
それが彼の最期の言葉だった。私の銃が橙色に光り、次の瞬間には後ろに倒れていく勇二郎が見えた。
勇二郎の額にぽっかりと開いた穴から黒っぽい液体が吹き出し、宙を舞う。テレビゲームに出てくる敵みたいだ、と私が思った時には、その液体はビシャッという音と共にコクリートの床に落ちていた。
その後に勇二郎の体が落ちた。それからワンテンポ遅れて勇二郎の座っていた椅子が大きな音を立てて、床を転がった。
二階席から絶える事の無い拍手が沸き起こった。皆、立ち上がり、私に拍手を送っている。私は虚ろな目で彼らを見上げる。
私は泣いていた。何故か大粒の涙を流していた。
何故、泣いているのだろう。勝ったからか、勇二郎の死を悲しんでいるのからか、それとも拍手を貰ったからか、その理由が分からなかった。
「何で私、泣いてるのかしら?」
解放されたからよ。
「解放? 何から解放されたの?」
それは私にだって分からないわ。だって、私はあなただもの。
「そっか。私か‥‥」
一体私は誰と話しているのだろう。そんな事を思った。そして、段々と意識がはっきりとしてきた。頭の神経が戻ってくる。
ゆっくりと狂いの空間が消えていく。死んだ魚の目をした私の声が聞こえなくなっていく。ドッと汗が出て、シャツが濡れた。私は崩れ落ちるように、その場にへたり込んだ。
「おめでとう。君の勝ちだ。だが六百万の借金だ」
目の前に高瀬がいた。高瀬は私の手を取り、ゆっくりと立たせる。彼の顔を見た瞬間、私の心にあの疑問が舞い戻ってきた。
「ねえ」
「何だ?」
「答え、聞かせて。私はその為に勝ったんだから」
「‥‥聞いてどうする? お前が何も変わらないなら、意味など無い」
高瀬は冷淡に答え、部屋から出ていく。その後を追った。
「意味なんて問題じゃないわ。ただ納得したいだけよ」
「‥‥そうか。なら言おう」
高瀬は立ち止まり、振り向いた。サングラスの向こうの瞳が揺れていた。
「他人が死に、お前は生き残る。それを俺は幸福だと思っている」
「‥‥私?」
「そうだ。俺はお前に死んでほしくない。だから、対戦相手の不幸を願うんだ」
そう言って、高瀬は私に口付けし、会場から出ていった。私はただその場に立ち尽くすだけだった。